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ピアノ協奏曲第3番 ホ短調 「バラード」 Op.60は、ニコライ・メトネルが1943年に完成させたピアノ協奏曲である。この年、彼は63歳になっており、この曲が最後の主要作品となった。 == 概要 == ピアノ協奏曲第3番は早くからメトネルのスペシャリストであった、ピアニストのベンノ・モイセイヴィチの委嘱によって作曲された〔Presto Classical 〕。 メトネルは個人的に、この曲の第1楽章がミハイル・レールモントフのバラード「ルサルカ ''Rusalka''」に触発されたものだと語っていた。そのバラードは水の精が眠る騎士を誘惑して目覚めさせようとするも、失敗に終わるという内容のものである。彼はレールモントフの詩文を拡大の上、残りの楽章にも適用している。騎士(人の魂の擬人表現である)は目覚めて歌を歌うがそれは聖歌へと転化する。これは彼が誘惑に打ち勝ったこと、そして贖罪が完結して永遠の生命を手にしたことを象徴している〔〔Toronto Symphony Orchestra 〕。 1940年9月、メトネルと妻のアンナ(Anna)はロンドンに住んでいたが、ロンドン大空襲が本格化し始めた頃であった。彼の作品に献身的に取り組んでいたイギリス人ピアニストのエドナ・アイレス〔訳注:1905年生まれ、メトネルは彼女を評して「私の音楽の要塞を最も勇敢、有能に包囲している人物」としていた。(Edna Iles)〕が両親の実家のある、バーミンガム郊外のモーズリー〔訳注:バーミンガム中心部から南に3kmの住宅、商業地区。(Moseley)〕に移っており、メトネル夫妻もそこへ身を寄せることにした。その家が爆撃を受けてからは、夫妻とアイレス一家はウスターシャーの村であるウィザール〔訳注:ブロムズグローヴ地区(Bromsgrove District)の村。バーミンガムから南に10キロ弱。(Wythall)〕へと移った。その後彼らはウォリックシャーのストラトフォード・アポン・エイヴォンに程近いウタン・ウォウアン〔訳注:バーミンガムから32キロの地点にある小さな村。(Wootton Wawen )〕の人里離れた家へと引っ越す〔British-Russian Society 〕。こうして地方を巡る中で協奏曲第3番は完成されたのである。 ある日、メトネルはアイレスに第1楽章の草稿を渡して、これまで完成する前に作品の一部を人に見せたことはないのだと言った。2人は2台のピアノで曲の練習をし、彼は完成後には総譜を彼女に贈った〔Hyperion Records 〕。メトネル夫妻は1943年4月にロンドンへと戻った〔。 メトネルは第3協奏曲をマイソール王国の藩王国のマハラジャ〔訳注:サンスクリット語で上級王の意。ラージャの中でも強大な権力を持つものを指した。(Maharaja)〕であるジャヤ・チャーマ・ラージャ・ウォディヤール〔訳注:1919年生まれ、マハラジャとしての在位期間は1940年から1950年であった。(Jayachamarajendra Wadiyar)〕に献呈した。このインドの王はメトネルを支援してメトネル協会を立ち上げ、メトネルが主要作品をピアノの自作自演で録音を遺すのに貢献した人物である。献辞には「我が作品の評価と増進への深き感謝と共に」と書かれている〔Hyperion Records 〕。 初演は1944年2月19日にエイドリアン・ボールトの指揮、作曲者自身のピアノによりロイヤル・アルバート・ホールで行われた〔〔Lawrence Budmen 〕。彼は録音活動に関しては1951年の死の2年前に健康状態が悪化するまで継続したが、公開の演奏会は1944年を境にやめており、したがってこれが彼の最後の演奏会の一つとなった〔Music Web International 〕。 メトネルの死後、妻のアンナの要望によりこの曲がアナトール・フィストゥラーリの指揮、ニュージーランド生まれのピアニストのコリン・ホースリー〔訳注:1920年生まれ、主にイギリスで活躍した。作曲家のレノックス・バークリーの創作活動に重要な役割を果たした。(Colin Horsley)〕(彼はメトネル遺作のピアノ五重奏曲の初演も行っている)をソリストに迎えて、追悼演奏会で演奏された〔David CF Wright, A Lost Generation of Pianists 〕。 メトネル夫人は、メトネルの死亡時にまだ22歳であったウクライナのピアニストのドミトリー・パペルノ〔訳注:1929年生まれ、1955年のショパン国際ピアノコンクールで6位入賞を果たしている。(Dmitry Paperno)〕に、第3協奏曲のロシア初演を依頼したが、彼はこれを断っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピアノ協奏曲第3番 (メトネル)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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